第1章|見えない労働市場

第2節|家の温もりと、現実の重さ

中野駅に降り立つと、東京駅にはない湿り気を含んだ柔らかな空気が頬を撫でた。

人が多いはずなのに、どこか生活の音が混ざっている。

商店街の惣菜の匂い、古い喫茶店の焙煎の香り、自転車のチェーン音。

雑多でありながら温かい街の気配が、一真の“帰ってきた”という実感を静かに呼び起こした。

改札を抜け、いつもの道を歩く。

スーパーの前ではタイムセールの声が響き、

マンション前では子どもがボールを蹴っている。

東京駅とはまったく違う時間の流れ方。

ここが、自分の“現実の生活”だ。


玄関を開けると、1歳と3歳の子どもが笑顔で飛び込んできた。

小さな体温が胸に触れると、今日の重さが一瞬だけ溶ける。

しかしその温もりは、同時に一真を強く締め付けた。

守りたいのに、守れている気がしない。

「おかえりー!」

キッチンからは味噌汁の匂い。

妻の明日香が「おかえり」と笑い、子どもたちを一度引きはがしてくれる。

その仕草に、日常の安心と、言葉にしづらい申し訳なさが同時にこみ上げる。


いまの2LDKは、子どもの成長とともに急速に狭くなってきた。

リビングと個室は引き戸で区切っただけで、実質1.5LDK。

一真のワークデスクはダイニングテーブルの端。

オンライン会議では、子どもの声がマイクに入り込む。

夕食の小さなテーブルでは、誰かが立つたび、全員が椅子を引かなければならない。

日常の不便さが、“今の自分の限界”を静かに突きつけてくる。

「今すぐというわけじゃないけど……子どもが大きくなる前に、広い家、考えたいよね」

食器を片付けながら明日香が言った。

責める口調ではない。ただ、未来を諦めたくないという願いだった。

それが、一真にはいちばん重かった。


子どもたちが寝静まった後、リビングの明かりを落とし、一真はソファに沈み込んだ。

テレビの黒い画面には、子ども番組の残像がぼんやり浮かび、

冷蔵庫のモーター音だけが一定のリズムを刻む。

静寂の中で、胸の奥のざらつきが大きくなる。

スマホを取り出し、不動産アプリ「SOONO」を開く。

“中野駅・高円寺駅 徒歩10分以内・戸建て/70㎡以上”

検索ボタンを押すと、現実が数字となって突きつけられる。

1億4,280万円

1億8,600万円

2億3,480万円

お気に入りの物件は、どれも“成約済み”の赤いラベル。

数日前まで残っていたはずなのに。

「……誰がこんなの買えるんだよ」

笑って言ったつもりだったが、喉の奥は乾いていた。


画面下部には地価情報。

中野駅周辺:坪単価 約480〜620万円

高円寺:坪単価 約420〜550万円

駅徒歩10分以内の新築。

土地だけで9,000万円前後、建物を入れれば1億4,000万円超えは当然。

年収だけでは、どうにも届かない数字。

簡易ローンシミュレーションを開く。

頭金2,000万円、返済期間35年、金利0.6%。

画面に表示された月々の返済額を見て、一真は静かに息を吐いた。

数字上は「不可能ではない」。

だが、現実には……。

ボーナス減。金利上昇。教育費。

不確定要素の多さが、画面の数字を現実味のない幻に変える。


ソファにもたれたまま、スマホの光に照らされた自分の指先を眺める。

温かい家庭がすぐ背中にあるのに、

胸の奥には言葉にならないざらつきだけが広がっていく。

そのときだった。

——このままでいいのか?

胸の奥が、小さく波立つように揺れた。

理由はわからない。ただ、何かを見落としている気だけが残った。

夜風がカーテンを揺らす。

日常の景色が、ほんのわずかにズレて見えた。

その違和感こそが、後に白洲と出会うための、小さな入口だった。


(→ 第3節|静かな逃避、そして一歩目 へつづく)

  • この記事を書いた人

ごわりす

元GAFA海外勤務・外資戦略コンサル・ユニコーン企業の事業責任者を経て、『ピボット転職』を運営。年収UPのリアルやキャリア戦略、外資/コンサル/日系大手の実態を発信しています。海外テックでは新規事業やパートナー戦略、外資コンサルでは大手企業の改革支援、ユニコーンでは事業開発やマーケを担当。こうした経験をもとに、「構造を理解したキャリア設計」で年収2,000〜3,000万円を目指す方法を紹介。キャリア相談・個別アドバイス(有料)も受付中です。

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