中野駅に降り立つと、東京駅にはない湿り気を含んだ柔らかな空気が頬を撫でた。
人が多いはずなのに、どこか生活の音が混ざっている。
商店街の惣菜の匂い、古い喫茶店の焙煎の香り、自転車のチェーン音。
雑多でありながら温かい街の気配が、一真の“帰ってきた”という実感を静かに呼び起こした。
改札を抜け、いつもの道を歩く。
スーパーの前ではタイムセールの声が響き、
マンション前では子どもがボールを蹴っている。
東京駅とはまったく違う時間の流れ方。
ここが、自分の“現実の生活”だ。
玄関を開けると、1歳と3歳の子どもが笑顔で飛び込んできた。
小さな体温が胸に触れると、今日の重さが一瞬だけ溶ける。
しかしその温もりは、同時に一真を強く締め付けた。
守りたいのに、守れている気がしない。
「おかえりー!」
キッチンからは味噌汁の匂い。
妻の明日香が「おかえり」と笑い、子どもたちを一度引きはがしてくれる。
その仕草に、日常の安心と、言葉にしづらい申し訳なさが同時にこみ上げる。
いまの2LDKは、子どもの成長とともに急速に狭くなってきた。
リビングと個室は引き戸で区切っただけで、実質1.5LDK。
一真のワークデスクはダイニングテーブルの端。
オンライン会議では、子どもの声がマイクに入り込む。
夕食の小さなテーブルでは、誰かが立つたび、全員が椅子を引かなければならない。
日常の不便さが、“今の自分の限界”を静かに突きつけてくる。
「今すぐというわけじゃないけど……子どもが大きくなる前に、広い家、考えたいよね」
食器を片付けながら明日香が言った。
責める口調ではない。ただ、未来を諦めたくないという願いだった。
それが、一真にはいちばん重かった。
子どもたちが寝静まった後、リビングの明かりを落とし、一真はソファに沈み込んだ。
テレビの黒い画面には、子ども番組の残像がぼんやり浮かび、
冷蔵庫のモーター音だけが一定のリズムを刻む。
静寂の中で、胸の奥のざらつきが大きくなる。
スマホを取り出し、不動産アプリ「SOONO」を開く。
“中野駅・高円寺駅 徒歩10分以内・戸建て/70㎡以上”
検索ボタンを押すと、現実が数字となって突きつけられる。
1億4,280万円
1億8,600万円
2億3,480万円
お気に入りの物件は、どれも“成約済み”の赤いラベル。
数日前まで残っていたはずなのに。
「……誰がこんなの買えるんだよ」
笑って言ったつもりだったが、喉の奥は乾いていた。
画面下部には地価情報。
中野駅周辺:坪単価 約480〜620万円
高円寺:坪単価 約420〜550万円
駅徒歩10分以内の新築。
土地だけで9,000万円前後、建物を入れれば1億4,000万円超えは当然。
年収だけでは、どうにも届かない数字。
簡易ローンシミュレーションを開く。
頭金2,000万円、返済期間35年、金利0.6%。
画面に表示された月々の返済額を見て、一真は静かに息を吐いた。
数字上は「不可能ではない」。
だが、現実には……。
ボーナス減。金利上昇。教育費。
不確定要素の多さが、画面の数字を現実味のない幻に変える。
ソファにもたれたまま、スマホの光に照らされた自分の指先を眺める。
温かい家庭がすぐ背中にあるのに、
胸の奥には言葉にならないざらつきだけが広がっていく。
そのときだった。
——このままでいいのか?
胸の奥が、小さく波立つように揺れた。
理由はわからない。ただ、何かを見落としている気だけが残った。
夜風がカーテンを揺らす。
日常の景色が、ほんのわずかにズレて見えた。
その違和感こそが、後に白洲と出会うための、小さな入口だった。
(→ 第3節|静かな逃避、そして一歩目 へつづく)