第1章|見えない労働市場

第3節|静かな逃避、そして一歩目

鳴海一真は、翌朝、会社に向かう電車の窓に映る自分の顔をぼんやりと眺めていた。

昨日の夜、子どもが寝静まった後にキッチンの明かりの下で感じた“ざらつき”は、まだ胸の奥にこびりついている。 「評価がすべてではない」と頭ではわかっている。 けれど、会社の“評価”が自分の価値を決めてしまうような、あの息苦しさは、どうしても拭えない。

アナウンス音が流れるたび、未読の Slack、今日のタスク、会議の準備…。 いつもと同じはずの一連の“仕事の音”が、今日はどこか遠い。

幸い、今日は重要な打ち合わせはない。 1時間後のエンジニアとのミーティングさえ終えれば、あとは比較的ライトな作業が続くだけだ。 やるべきことはある。 あるのに──なぜか、会社に向かう足だけが重かった。

電車が次の駅に減速する。 車内アナウンスが響き、その瞬間、鳴海は唐突に立ち上がっていた。

理由はない。ただ、このまま会社に向かいたくなかった。

気づけば、普段降りない駅のホームに立っていた。


偶然の風景と、知らない路地

ホームに降りると、通勤客が慌ただしく階段を上っていく。 鳴海だけが取り残されたような静けさの中、深呼吸をひとつ。

「少し歩こう。」

そう思ったのは、逃避だったのか、直感だったのか。 細い路地に入ると、ビルの隙間から朝日がのぞき、風景は一気に静寂に変わる。

曲がり角の先、白い小さな看板が目に留まった。

YOhaku

その文字の下には、小さく「Coffee & Space」とある。

店内を覗くと、落ち着いた木の色に、やわらかな朝の光。 コンクリートと観葉植物のバランスが絶妙で、名前どおり“余白”を感じさせる空気。

鳴海の足は、気づけば入口へ向かっていた。

静かなカフェで、立ち止まる心


扉を開けると、軽いベルの音が鳴った。

「いらっしゃいませ。」

カウンターの奥から、落ち着いた声が聞こえる。 店内にはまだ数人しかいない。 鳴海は窓際の席に座り、コーヒーを注文した。

コップの縁から立ちのぼる湯気を眺めていると、 胸に張りついていた“ざらつき”が少しずつほどけていくのを感じた。

——会社での自分は、いったい何を追いかけているんだろうか。 ——誰のためのキャリアなんだろうか。 ——この先、どこに向かうつもりなんだろう。

コーヒーの香りとともに、ゆっくりと言葉にならなかった問いが浮かび上がる。

その瞬間、鳴海の背後で、コトリ、と椅子が動く音がした。

白洲 慧(しらす さとし)の姿

振り返ると、白髪まじりの男性が静かに席につくところだった。

整ったシャツ、落ち着いた表情、どこか“時間”を味方につけているような佇まい。 店員が「おはようございます、白洲さん」と声をかける。 どうやら常連らしい。

本を開くその姿には、妙な存在感があった。 背筋が自然と伸びているような、 誰よりもこの空間に馴染んでいるような。

鳴海は無意識のうちに、その人物から目を離せなかった。

なぜだろう。 初めて見るはずなのに、惹かれる。

白洲 慧はふと視線を上げ、鳴海と目が合った。

穏やかな笑みを浮かべ、軽く会釈をする。 それだけなのに、胸の奥が小さく揺れた。

この人は、何かを知っている。 そう思わせる何かがあった。

この朝、鳴海はまだ知らなかった。 ここから始まる“余白”が、 自分のキャリア観を根底から変えていくことを。

  • この記事を書いた人

ごわりす

元GAFA海外勤務・外資戦略コンサル・ユニコーン企業の事業責任者を経て、『ピボット転職』を運営。年収UPのリアルやキャリア戦略、外資/コンサル/日系大手の実態を発信しています。海外テックでは新規事業やパートナー戦略、外資コンサルでは大手企業の改革支援、ユニコーンでは事業開発やマーケを担当。こうした経験をもとに、「構造を理解したキャリア設計」で年収2,000〜3,000万円を目指す方法を紹介。キャリア相談・個別アドバイス(有料)も受付中です。

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