第1章|見えない労働市場

第5節|人材価値の冷徹な鏡、起業という名の「荒野」

30代後半・転職市場の冷徹な現実

「社内政治、根回し……。頭では分かっている。それが組織を潤滑に回すための『必要経費』だということは」

朝霧との会話を反芻しながら、自分は心の中で独りごちた。

だが、自分の答えはNOだ。

理由は明白だ。それらは一歩会社の外に出れば、一銭の価値にもならないからだ。

職務経歴書のスキル欄に『常務への根回しが得意です』『他部署との調整をやっていました』と書いて、一体どこの誰が評価するというのか。

面接官は鼻で笑うだけだろう。

市場が求めているのは、どの会社に行っても通用する、再現性のある『ハードスキル』だ。

時間を使うなら、自分という人的資本に「資産」として残る能力に投資したい。

会社という看板が外れた時、最後に残るのは裸のスキルだけだ。ビジネスパーソンとしての本質は、どこまで行っても「個の力」であるはずだ。

自分は再び、転職サイトのタブを開いた。

組織に媚びるスキルではなく、実力そのものが資産として評価される場所へ。

しかし、意気揚々と漕ぎ出した転職市場という大海原は、想像以上に冷徹だった。

最初に狙ったPE(プライベート・エクイティ)ファンドは、門前払いだった。

「率直に申し上げますと、書類通過率は2割以下です」

エージェントの声は淡々としていた。

投資の実務経験なし、戦略コンサルの在籍期間も短い。「未経験のポテンシャル」だけで通用するほど、資本の最前線は甘くなかった。

提示されたのは、年収が半減するFAS(ファイナンシャル・アドバイザリー・サービス)での下積み。自分は乾いた笑いで断るしかなかった。

ならばと目を向けた中堅企業のCxO職も、壁は厚かった。

ようやく届いたオファーは『経営企画部長候補』。

年収は現在よりダウン。しかも求められるのは、泥臭い社内調整と、オーナー社長への忠誠心。

これなら、今の会社にいるのと変わらない。

スタートアップの求人も見た。

だが、そこに並ぶ「CxO」の文字の実態は、プレッシャーに塗れたB2Bの営業責任者だ。今の自分には守るべき家族がいる。

ストックオプションという名の宝くじを握りしめ、週末も深夜もなく数字に追われる生活に身を投じる覚悟は、今の自分には持てなかった。

季節が二つほど変わろうとしていた。

自分の受信トレイには、丁寧だが冷淡な定型文のメールばかりが積み重なっている。

『誠に残念ながら、今回はご縁がなかったということで……』

まただ。

数ヶ月に及ぶ転職活動の成果が、この淡白なメール一通だ。

PEはスキル不足。

中堅企業は条件不一致。

スタートアップはリスク過多。

気がつけば、あれほど輝いて見えた「市場価値」という言葉が、色褪せた呪いのように自分を縛り付けていた。

「椅子がないなら作るしかない」――起業という論理的帰結

自分は行き場のない溜息とともに、逃げるようにPCを閉じた。

(……他人の作った椅子に座ろうとするから、買い叩かれるんだ)

ふと、そんな思考が脳裏をよぎる。

椅子取りゲームに参加するから、確率論に殺される。ならば、自分で椅子を作ればいいのではないか?

起業。

自分のスキルを最も高く評価してくれるのは、自分自身だ。

戦略立案も、事業計画も書ける。論理(ロジック)こそが最大の武器だ。自分が解決できる顧客ニーズをみつけて解決できれば、あんな理不尽な評価に晒されることもない。

そうだ。葛城(かつらぎ)に会いに行こう。

かつてコンサル時代の同期で、2年前に独立してAI系スタートアップを立ち上げた男だ。

ファームでは「神童」と呼ばれ、最年少マネージャー確実と言われていた彼なら、この閉塞感を打破するヒントを持っているはずだ。

元戦略コンサル(MBB)が起業で陥る「ロジックの敗北」

「正解」のないテスト

指定された場所は、渋谷の雑居ビルにあるシェアオフィスの一角だった。

ガラス張りの小さな会議室に現れた葛城は、自分の記憶にある「切れ味鋭いエリート」とは、何かが違っていた。

「……久しぶりだな、鳴海」

ヨレたTシャツに、無精髭。

目は笑っているが、奥底に澱(おり)のような疲れが見える。

「悪かったな、急に。……実は、起業を考えていて。お前の話を聞きたかったんだ」

自分がそう切り出すと、葛城は苦笑いしながら、手元の缶コーヒーを開けた。

「起業、か。……鳴海、お前は優秀だ。MBB(トップティア)の作法も身についている。だがな、悪いことは言わない。今のままならやめておけ」

「なぜだ? ロジックも組めるし、事業計画も――」

「その『ロジック』が邪魔をするんだよ」

葛城は自嘲気味に言った。

なぜ「優秀なコンサルタント」はスタートアップで失敗するのか?

「俺もそうだった。市場調査も競合分析も完璧にして、勝てるロジック(Winning Formula)を描いた。投資家向けのピッチデックも完璧だった。シードで数千万、サクッと集まったよ。ここまでは『コンサルのゲーム』だったからな」

彼は視線を宙に彷徨わせた。

「でもな、プロダクトを出したら、誰も使わなかった」

「……え?」

「想定した顧客ニーズなんて、机上の空論だったんだ。『ユーザーは合理的じゃない』なんて教科書には書いてあったが、現実はもっとカオスだ。俺たちが得意な『戦略』なんて、戦場では紙屑同然だった」

葛城は指を折りながら、MBB出身者が陥る「地獄」を語り始めた。

「まず、期待値のギャップに殺される。周りは『元戦略コンサルなら成功して当たり前』と思ってるし、自分でもそう思ってる。でも、実績が出ない。『あれ、俺ってこんなに使えない人間だったっけ?』って、毎晩自己否定のループだ」

彼の言葉は、自分の胸に冷や水を浴びせるようだった。

「それに、チームが作れない。俺はエンジニアに対して『なんでこんな論理的な仕様が理解できないんだ』って詰めちまった。結果、創業メンバーは半年で辞めた。『あなたは正しいけど、ついていけない』って言われてな」

「……お前ほどの人間に?」

「ああ。投資家からは『論理は分かった。で、君自身は何ができるの?』と聞かれる。コードも書けない、泥臭いテレアポもプライドが邪魔してできない。俺たちにあるのは『正解を探す能力』だけだ。でもスタートアップに正解なんてない」

資金ショートとアイデンティティの崩壊

葛城はスマホを取り出し、画面をタップした。そこにはSNSの画面があった。

「見てみろ。元同期の連中は、ファンドでパートナーになったり、大企業の役員になったりしてる。あいつらの人生は『第3章、第4章』と進んでるのに、俺だけまだ『第1章』の泥沼でもがいてる。成功ストーリーの中に、自分の居場所がない焦燥感……これが一番キツい」

そして彼は、声を潜めて付け加えた。

「先週、妻に言われたよ。『いつまで夢を見てるの? 保育園代、来月から上がるのよ』ってな。……コンサル時代の貯金も、会社のバーンレート(資金燃焼率)であっという間に溶けた。来月の資金繰りを考えると、吐き気がする」

戻るのも怖い。進むのも怖い。

エリートとしてのプライドと、現実の無力感の板挟み。

「鳴海。ここは『ロジック』で攻略できるゲームじゃない。論理という武器を捨てて、泥水をすする覚悟がある奴だけが生き残れる。……お前に、その覚悟はあるか?」

葛城の問いかけに、自分は即答できなかった。

彼が纏っているのは、かつての「憧れの先輩」のオーラではなく、戦場で傷つき、血を流し続けている兵士のそれだった。

「……効率が悪いな」

思わず口をついて出た言葉に、葛城は寂しげに笑った。

「ああ。最高に非効率で、非合理的だ。だからこそ、まだ誰もやっていない価値がある……とは思うがね」

行き止まりの交差点で、その名は灯る

シェアオフィスを出ると、渋谷の街は夕暮れに染まっていた。

人混みの中で、自分は立ち尽くした。

社内政治の泥臭さから逃げ、転職市場の冷徹さから逃げ、そして今、起業という選択肢さえも「ロジックの通じない荒野」であることを知らされた。

会社に残れば、飼い殺し。

外に出れば、漂流。

自分で作ろうとすれば、遭難。

いっそ、戻るか。

思考の振り子が、大きく逆側へと振れる。

かつて自分がいた、外資系戦略コンサルの世界へ。

確かに、短期間で転職を繰り返す「ジョブホッパー」のレッテルを貼られるリスクはある。

一度離れた人間に冷たいファームもあるだろう。

何より、そこは完全実力主義の「Up or Out(昇進するか、去るか)」の世界だ。常に競争に晒され、気の休まる時間などない。

だが、そこには明確な「ルール」があった。

曖昧な社内政治や、理不尽な感情論ではない。

明確なスキル項目と、提供したバリューによって昇進が決まる、ドライだが公正な世界。

今の会社のような生ぬるい地獄より、ヒリつくような戦場の方が、よほど精神衛生上マシなんじゃないか?

(……結局、自分にはそこしか居場所がないのかもしれない)

そうやって自分を納得させようとした、その時だった。

ポケットの中でスマホが震えた。

画面に表示された名前を見て、自分は息を呑んだ。

『朝霧 透』

あの喫茶店での別れ際以来の、連絡だった。

(→ 第6節|「黄金の手錠」と「社内政治」という名の仕事 へつづく)

  • この記事を書いた人

ごわりす

元GAFA海外勤務・外資戦略コンサル・ユニコーン企業の事業責任者を経て、『ピボット転職』を運営。年収UPのリアルやキャリア戦略、外資/コンサル/日系大手の実態を発信しています。海外テックでは新規事業やパートナー戦略、外資コンサルでは大手企業の改革支援、ユニコーンでは事業開発やマーケを担当。こうした経験をもとに、「構造を理解したキャリア設計」で年収2,000〜3,000万円を目指す方法を紹介。キャリア相談・個別アドバイス(有料)も受付中です。

-第1章|見えない労働市場
-, , , ,