第2章|なぜ、完璧なロジックは組織で負けるのか

第3節|「顔を立てる」は統治のアウトソーシングである──非合理な社内政治の合理的活用法

神楽坂の路地裏にある『YOHaku』の重い鉄扉を開けると、いつもの静寂とコーヒーの香りが私を迎えてくれた。だが、今の私にはその静けささえも、焦燥感を煽るノイズにしか聞こえなかった。

私はカウンター席に鞄を置くなり、昼間に起きたシステム部との衝突を白洲にぶちまけた。

「……というわけです。谷口部長の態度は明らかにサボタージュでした。『技術的リスク』なんて言葉はただの隠れ蓑だ。本音は、新しい承認フローで自分のハンコが不要になるのが気に入らないだけでしょう」

カウンターの向こうで、白洲は無言でグラスを磨いている。その手元を見つめながら、私はさらに語気を強めた。

「プロジェクトは社長直轄です。谷口部長が首を縦に振らないなら、彼の承認をスキップして、担当役員の決裁だけで進めるつもりです。現場のエンジニアたちは賛成しているんですから、抵抗勢力に付き合っている時間はありません」

そこまで一気に言い切って、私は出された水をあおった。

白洲は磨き終えたグラスを棚に戻すと、ようやくこちらに向き直った。穏やかな表情だが、その目はどこか観察するような光を帯びている。

「鳴海さん。君は企画書という『設計図』を書いた。それは確かに、合理的で立派な建物だったろうね」

不意に核心を突かれ、私はグラスを置く手を止めた。

「ですが、その建物が建つ『地盤』のことを考えたことはありますか?」

「地盤……ですか? どういう意味でしょう」

「以前、数々の企業再建を成功させた、ある『プロ経営者』に取材をした時のことです」

白洲は私の問いには直接答えず、記憶の糸を手繰り寄せるように目を細めた。

「彼の手法は外からはドラスティックに見えましたが、内実は極めて泥臭いものでした。当時、若かった私は彼にこう尋ねたんです。『なぜ、明らかに弊害となっている古参役員を、真っ先に解雇しないのですか』と」

白洲は苦笑しながら、愛用の赤い鉛筆を指先でくるりと回した。

「まさに今の君と同じ疑問をぶつけたわけです。すると彼は、キョトンとしてこう言いました。『彼を追い出したら、彼が抑えていた何百人もの部下の面倒を、全部私が一人で見なきゃいけないだろう? そんなコストの掛かることは御免だね』と」

「……コスト、ですか」

「ええ。君の言う通り、谷口さんは変化を嫌う旧人類かもしれない。だが、彼はこの会社のシステム部という『土地』を20年も治めてきた人間です。部下のエンジニアたちが君に賛成していると言ったね? それは本当かもしれない。だが、もし君が谷口さんの顔を潰して頭越しに命令を下せば、彼らはどう思うでしょう」

「それは……合理的な判断がされたと、思うのでは?」

「いいえ。彼らは『明日は我が身』と恐怖します。自分たちの親分が、外から来た人間に公衆の面前で殴り倒されたわけですからね。その瞬間、システム部は君の敵に回る。表向きは従うふりをしても、現場レベルで微細なサボタージュが始まり、君は彼ら一人一人を監視し、指示を出さなければならなくなる」

私は反論しようと口を開きかけたが、言葉が出てこなかった。脳裏に、谷口の背後にいた若手エンジニアたちの、不安そうな視線がフラッシュバックしたからだ。

「いいですか、鳴海さん。谷口さんに花を持たせ、彼の承認印をもらうこと。それは単なる形式や妥協ではありません。彼のメンツを立てることで、彼に部下を統率させ続けるのです」

「……あえて、彼に仕切らせると?」

「そうです。それが『統治コスト』を下げるということです。君が一人で100人のエンジニアを管理するコストと、谷口さん一人に頭を下げて彼に100人を管理させるコスト。どちらが安いかは明白でしょう?」

白洲は私の前に、注文していない温かいコーヒーをそっと置いた。

「『顔を立てる』というのは、日本的な情緒の話じゃない。極めて合理的な『統治のアウトソーシング』なんですよ」

湯気とともに立ち上る香りが、強張っていた私の肩の力を少しだけ緩ませた。

私は「非効率な老害」を排除することこそが正義だと思っていた。だが、白洲はそれを「安価な管理職」として利用しろと言っているのだ。

「……参りました」

私は小さく呟き、コーヒーに口をつけた。

苦味の奥に、わずかな甘みが広がった。

(→ 第4節|「働かないおじさん」は組織のスタビライザーである──効率化の罠とトキシック・ハンドラー へつづく)

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ごわりす

元GAFA海外勤務・外資戦略コンサル・ユニコーン企業の事業責任者を経て、『ピボット転職』を運営。年収UPのリアルやキャリア戦略、外資/コンサル/日系大手の実態を発信しています。海外テックでは新規事業やパートナー戦略、外資コンサルでは大手企業の改革支援、ユニコーンでは事業開発やマーケを担当。こうした経験をもとに、「構造を理解したキャリア設計」で年収2,000〜3,000万円を目指す方法を紹介。キャリア相談・個別アドバイス(有料)も受付中です。

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